- 4月30日利稻
早朝の集落を散策
通行止地点から下山 - 7:30頃天龍
天龍吊橋周辺を散策
- 10:00頃初鹿
初鹿牧場の乳製品を立ち食い
飲食店で朝食兼昼食
美しい南廻公路を南下 - 12:30頃旭海
道を大幅に間違える
- 14:00頃牡丹
牡丹社事件ゆかりの地を巡る
- 18:30頃墾丁
ホテルにチェックイン
ホテル内でディナー&プール
墾丁大街を散策
利稻
4月30日 – 台湾ツーリング3日目
日の出前の5:00頃に目が覚めます。
ベッドから出るとかなり冷えていて防寒着を着込んでから外を散歩します。
のどかな集落の朝。
茶畑や野菜畑で農作業をしていたり、家畜小屋からは豚の絶叫が聞こえてきます。
集落を一通り撮影してから6:30頃に民宿をチェックアウト。
民宿の犬さんが見送ってくれました。
食堂はまだ営業時間外。
朝食抜きで利稻を出発します。
ちょうど小学生数人とすれ違います。こんなに早い時間に登校でしょうか。
通行止地点から下山
通行止を示す看板。
ここから内陸側(西側)へは進めず、昨日上ってきた道を台東方面に向かってそのまま下ります。
南部橫貫公路の周囲には壮大な景色と大自然が絶え間なく続いています。
私が撮った画像や動画ごときではその魅力の1%も伝えきれないほどの絶景がどこからでも視界に入ってきます。
つい停車して景色を眺める時間が長くなります。
天龍
7:30過ぎ、昨日立ち寄った霧鹿の近くにある天龍飯店にスクーターを停めます。
この辺りは小規模な民宿が多い中、天龍飯店は一際大きなホテルで駐車場には観光バスが何台も停まっています。
天龍吊橋
このホテルの裏側に私が見てみたかった吊り橋があります。
ホテルのすぐ裏にある天龍吊橋。
この吊り橋は抗日運動が散発していた日本統治時代、原住民を監視するための關山越嶺道の一部として1929年に建設されました。吊り橋のすぐ近くで現在の駐車場がある場所には原住民を監視するための見張所が建てられていました。
天龍吊橋の近くに掲示されている案内図。
日本統治時代(1933年/昭和8年)に撮影された吊り橋付近の写真。
写真の左上に吊り橋、右下に見張所が写っています。
日本統治時代は霧鹿をブルブル(BURUBURU)と読んでいたことから、
この吊り橋も当時は「ブルブル鐵線橋」と呼ばれていました。
一時期は放置され崩壊寸前になっていましたが、1980年代以降には台湾人による大規模補修工事によりほぼ新築され今では安全に渡ることが出来ます。
天龍吊橋を渡る様子を動画で。
揺れは少なくても幅が狭くて80m下に流れる新武呂渓がよく見えます。
川の水量はさほど多いわけでもないのに轟音が響き渡っています。
この吊り橋を両端から見たときの画像。
橋を渡った向こう側から見たときに正面に写っている建物が天龍飯店です。
吊り橋を渡り切った場所には建設に関わった日本人の名前が刻まれています。
吊り橋の先には天龍古道と呼ばれる細い登山道が続いています。
吊り橋を渡り終えて一安心し、すぐにスクーターに跨って出発します。
初鹿 – 旭海
南部橫貫公路→花東縦谷公路に進み一直線に続く道路を淡々と直進します。
初鹿で食事
どこで朝食をとるか考えているときに台東郊外の初鹿を通過。
ここには台湾銀行が運営する国営の初鹿牧場があり当然ながら乳製品の名産地です。
ミニバスから降りてきた観光客らしき集団がヨーグルトを立ち食いしてる店を見つけて入ってみます。
ここで初鹿牧場ブランドの牛乳とプリンを買ってその場で食べてみます。
かなり美味しくて大当たりでした。
その近くで見つけた巨森早餐吧という台湾各地に出店しているチェーン食堂で朝食。
指差し注文でコレが出てきました。何という料理か知りませんが美味かったです。
台湾一周中の日本人だと伝えると、何故か店員さんと一緒に記念写真を撮ることになりました。
食事を終えたら手を振って見送っていただけました。
海岸沿いの南廻公路
台東市街を迂回するように南下して南廻公路に合流。
台湾南部の東海岸沿いの道路で、この周辺は計3回のツーリングで毎回通過していて、個人的にはこの周辺が台湾で最も美しい海岸ではないでしょうか。
道路沿いの駐車場に入って休憩。
そこから見える青い空、白い雲、碧い海。
波の音に包まれる絶景です。
更に南へ行くと最強に美しい海岸が見られる旭海という地があると知り、ナビが示した通りの道を進んでいきます。
旭海を目指して迷子になる
26号線に入り快適な舗装路をひたすら南下。
途中で舗装路が途切れて荒れた砂利道になっても気にせず南下。
途中で干上がった河川らしき場所を通過。本当にこの道でいいの?と心配し始めます。
電柱にスプレー手書きで旭海への行き先が示されていていて更に怪しさを感じ始めます。
民家の庭っぽい場所に出て犬に吠えられ、それでも先に進むとほとんど獣道になります。
その先はまさかの行き止まりでした。
仕方なく引き返すため方向転換しようとしてもタイヤが砂に埋まって動きません。
スクーターを降りて何度も切り替えして汗だくで方向転換して来た道を戻ります。
ようやく元の場所に戻ったところで標識を再確認。
中国語で「この先の道路は未開通、通行禁止」と明記してありました。
標識はよく見ましょう。
けっこうな時間ロスしてしまったことを反省しつつ、ナビの道案内を無視して片道2車線の幹線道路で次の目的地に向かいます。
牡丹
199号線のT字路付近にある道路標識。
旭海の海岸はこのT字路を左に曲がって10km以上先にありますが、今から行くと今夜のホテル到着が遅くなりすぎるので断念。右に曲がって次の目的地である牡丹市區(牡丹鄉の市街地)に向かいます。
ここ牡丹周辺は牡丹(ボタン)の花が特産品で、道路脇には美しいボタンの花が植えられています。
牡丹(ボタン)は中国語発音でムーダン(Mudan)、主に台湾南部で使われている台湾閩南語の発音では日本語とほぼ同じボタン(Botan)です。
原住民(パイワン族)の住む地域
市街地に向かう途中の道路沿いにこんな壁画が見えてきます。
牡丹は古くから原住民(パイワン族)が住んでいる地域。
大きな建物はほとんど無く小さな民家が建ち並んでいて、その中に原住民族特有の装飾が施された建物も点在しています。
山道の道端からは牡丹水庫(牡丹ダム)が見えます(画像右側)。
牡丹大橋を渡ったところで見つけた牡丹山荘で休憩。
民宿だが各種飲料も売っています。民宿の従業員さんが「ご希望ならば観光案内します」という日本語をノートPCの翻訳ソフトで提示していただけました。
牡丹社事件
この民宿を出発して数百m先にある屏東縣牡丹鄉石門國民小學(小学校)。
校舎の壁にはこんな画が描かれていました。
武装したパイワン族が迎え撃っている敵は我々の祖先である日本人です。
牡丹鄉は台湾近代史で有名な牡丹社事件(日本史における台湾出兵)の発生地でもあります。
1871年、宮古島民の船1隻が遭難して台湾に漂着し乗員69人のうち3人が溺死。上陸した生存者はパイワン族の集落に迷い込んだ際に食事を与えられる等の保護を受けました。しかし、十分な意思疎通が出来なかった宮古島民は集落から逃走、それを追ったパイワン族が宮古島民54人を殺害・斬首する事件が発生しました(宮古島島民遭難事件)。
生き残った12名は別ルートで宮古島へ帰還。当時の日本(明治政府)は台湾を統治していた清国に対して責任を追及するも「(台湾原住民は)教化の及ばぬ化外の民」として責任を回避しました。
1874年、日本は宮古島民殺害に対する報復を名目としてで台湾に派兵しパイワン族と戦闘、最終的に牡丹社を中心とするパイワン族居住地を制圧、双方に戦死者が出ました(牡丹社事件または台湾出兵)。
牡丹社事件紀念公園
この一連の事件を含めた牡丹鄉の歴史を記した壁画がこの周辺の道路沿いに描かれています。
歴史を予習しておくとその意味が十分に理解出来るような壁画が描かれています。
この壁画のすぐ近くにある牡丹社事件紀念公園。
散策道にパネルが展示してあり、パイワン族がこの地域に居住し始めた頃から宮古島島民遭難事件→牡丹社事件の過程が日本語・中国語・英語で詳しく説明されています。
(※説明の一部が事実と異なっていると日本側遺族から指摘されているそうです)
牡丹社事件は近代史において「琉球を実効支配した日本の見事な外交手腕」「後の世界史に大きな影響を与えた事件」等の様々な解釈がされていますが、どのような解釈にせよ殺害された宮古島民の遺族と戦死したパイワン族の遺族にとっては自分のご先祖様が理不尽な殺され方をした事実に変わりはありません。
しかし、お互いに恨みや憎しみを持ち続けるばかりではなく、事件発生から100年以上経ってこの歴史問題についての話し合いの場が持たれ、結果的に双方の遺族は和解に向かっています。
この公園には私が見てみたかった愛與和平紀念碑が建っています。
民族衣装のパイワン族と和服の日本人が肩を組んで連杯を交わしている石像。
肩を組んだかわいい後姿が私好みです。
連杯とは2つの酒杯が一つに連なっているパイワン族伝統の食器で、結婚式や祭事に使われることが多く、日本人とパイワン族の交流イベントにも使われたことがあります。
2007年にこの記念碑の除幕式が行われ、宮古島民とパイワン族の和解を象徴する碑となっていて、宮古島にも同じ像が設置されています。
石門古戦場
牡丹社事件紀念公園を離れ、1.5kmほど南へ向かいます。
駐車場からかなり長い階段を登った場所にある石門古戦場。
戦場と名付けられていますが、日本とパイワン族が実際に激戦を交えた地域はもっと広範囲で、ここは石碑と展望台だけの狭い広場です。
古戦場に建つ石碑。
元々は西郷都督遺跡記念碑(台湾出兵の指揮をした西郷従道の記念碑)でしたが後に書き換えられ、現在は「澄清海宇還我河山」(海宇を清らかにして我が山河を取り戻す)と刻まれています。
琉球藩民紀念園區
紀念公園と古戦場から少し離れた場所に「琉球藩民墓」の標識があります。
その先に進み鳥居をくぐると琉球藩民紀念園區の案内図があります。
大日本琉球蕃民五十四名墓と刻まれた墓標があり、宮古島島民遭難事件で犠牲になった54名の宮古島民はここに祀られています。
墾丁
牡丹社事件ゆかりの地を一通り見て回ったらもう夕方になってしまいました。
夕日が沈む地平線を横目に今夜の宿泊地へ急ぎます。
台湾南端の大規模リゾート地
屏鵝公路を南下すると台湾南端のリゾートである墾丁に近付いてきます。
薄暗くなった南灣では海水浴客が海から上がり始めています。
道端に屋台が並びカフェやサーフショップが並ぶ墾丁大街を通過。一際賑やかです。
途中でスクーターのおばちゃんが併走しながら声をかけてきます。私の聞き取りが正しければ「あんたかっこいいバイク乗ってるね!台湾一周でしょ?一泊1000元でどうだい?」みたいなことを叫んでいる気がします。台湾では民宿の客引きもスクーターに乗って追っかけてくるようです。
ただし、今夜の宿はツーリング出発前から予約済なので聞こえていないふりをしてやり過ごします。
予約済のホテルにチェックイン
18:30頃に今夜泊まる墾丁凱撒大飯店に到着。
墾丁では名の知れたリゾートホテルです。
涼しそうな服の観光客が行き交うホテルロビーに暑苦しいバイクウエアで汚れた荷物とヘルメットを抱えたままチェックイン。ホテル内のプールでビキニの女性が泳いでる姿が見えます。
今夜の部屋は景觀客房。
部屋の広さ・設備・アメニティは申し分無し、各部屋にバルコニーがあります。
暑苦しいバイクウエアを脱いで涼しそうな服に着替えてから夕食に向かう。
ホテルでディナー&プール
ホテル内の發現西餐廳(CompassRestaurant)でディナー。
この後に出かけてまた食事するかもしれないから食べ過ぎないように…と自粛したつもりが腹いっぱい食べてしまいます。
到着が遅れたせいでビーチでは泳げませんでしたが、21:00まで開いているホテル内のプールで泳ぐため、部屋に戻って水着に着替えて即部屋を出ます。
広いプールには遅い時間でも数十人の宿泊客が泳いだり寛いでいます。
飛び込み台付きプールは水深3mあり、プールの底に突っ込む勢いで飛び込めました。
早朝から夕方まで汗だくでツーリングした身体に冷たいプールが心地よくてたまりません。
夜の繁華街へ
プールの後はホテルを出て墾丁大街へ向かいます。
ここは観光客で毎日のように毎晩賑わっているそうです。ちょっと味見してみたい屋台の食べ物がいっぱいありつつ、ディナーで食べ過ぎてて腹に余裕がありません。
ホテルに戻って明日の準備。
バスルームのドアをフルオープンにして、暑い湯に浸かりながら明日の予定を確認します。
夜のプールもいいけど、せっかく来た台湾南端の青い空の下で海に入りたくてたまりません。
天気予報では明日は豪雨のようで心配です。
明日は西海岸を北上して高雄へ向かいます。
ツーリング動画
台湾ツーリング 2013 臺灣機車旅遊 – [part3] –
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